生まれ変わったら何したい?

 会社員1年生と27歳フリーターの間に授かる命

 

晴れた暑い日の、スーパーマルエツの冷凍品コーナー。太るから、アイスクリームを買うかどうかで迷い、行ったり来たりしている今年42歳の男性がいる。この優柔不断な男が私のだんな。そこに、お菓子コーナーからきた娘が「パパ!太るからやめな!」と言い放ち、自分のアイスはしっかりかごにいれている。このくだらないいつもの風景は、私にとって最上の幸せを感じさせる。娘はこの世にいなかった可能性もあったし、こんな風に家族でスーパーに来ること自体が、私には想像もつかないことだったからだ。 

 

両親はできちゃった婚で私を産み、私もできちゃった婚をした。妊娠が発覚したのは、だんなと知り合って半年、付き合って数日目の出来事。思いもよらない急な展開に、それはもう頭真っ白だった。子供が欲しいと思ったことは無く、むしろうるさいしわがままだし、何より正直で人の痛いところを突いてくるので苦手だった。まわりでママになった友達もひとりふたりで、親戚にも小さい子供はまだいなく、子育てがどうやって行われているか想像がつかない状態。出産って、鼻の穴からスイカを出すような感じですっごい痛いんでしょ、くらいの知識しかなかった。



当時私は27歳でフリーター。資格を取るとかいっているものの、自分が何をしたいのか今一つわからず、主に接客業のアルバイトを掛け持ちしていた。そのアルバイト先でだんなに出会った。突然の妊娠の報告にだんなも細い眼を丸くして驚き、話しても何もまとまらない。

 

だんなも当時は長年続けたバンド活動を32歳で諦め、契約社員1年目だった。果たして出産して子供を育てていけるのか。答えは出ない。でき婚の先輩である両親を見ても、どちらが答えかわからない。

 

日にちばかり過ぎてしまうので、居ても立っても居られなくなり、私の独断で中絶手術の予約のため婦人科へ行った。もれなく雨が降っていた。中絶手術の申込にきた女性が、泣きながら看護婦さんと話している声が聞こえてくる部屋で、緊張しながら順番を待った。診察の際に、初めておなかの中のエコー画像を見た。画面がチリチリした白黒の動画の中、ちいさい丸が力強く脈打っているのがはっきり見えた。その瞬間、娘の存在を感じて涙が止まらなかった。

 

 

手術の予約を済ませて病院から家に戻り、だんなの帰りを遅くまで待っていると、玄関が開いて外から雨が吹き込んだ。酔っぱらった真っ赤な顔でだんなが立っていて、「産もう!」と言った。

 

できちゃった婚は、恥ずかしい」

「だんなさんが結婚したくてわざとやったんじゃない?」

「結婚する気があったんなら、それはできちゃった婚じゃないですよ」

 

色んな意見を聞いたけど、その日から私たちは決断して迷わず結婚・出産へと進む。

 

 

 娘がこの世に誕生した瞬間から、多分に漏れず生活は激変した。できちゃった婚の私はどこまでも無計画で、赤ちゃん用の服を1枚しか用意しておらず、すぐに替えがなくなって右往左往。本など読んではいたけれど全てが事件で、産まれて数年は夜中に何度も起きること、歩き始めた子供を追い続けることがこんなに大変だと思わなかった。子どもを連れて近所を歩けば、計画的な出産をしたまわりのおうちの壁がすごく高く感じ、貯金も無いし、子どもが生後8か月の時に保育園に預けフルタイムで働きだした。

 

 

今まで接客業しか経歴が無く、5時に定時で帰れる仕事を派遣会社で探すと、コールセンターの仕事しかすすめられなかった。派遣会社から、子供が熱を出したときに、祖父母や親せきなど、近所に預ける場所があるのかと何度も聞かれた。子供が突然熱を出したりと、子持ちは突発休みが多いので仕事場に影響を与えるからだ。あまりに仕事が決まらなかったので、あては無いけれど「大丈夫です。」と小声で答えたら仕事が決まった。2か月面接し続けてやっとだった。

 

 

勤め先は、金融系のお客様センターの電話対応。ひたすら1日7時間電話に出続け、ひたすらお客様に謝り続ける仕事だった。電話で何分話したか、電話後の事務作業に何分使ったか、トイレに行った時間は何分かを全て計られていて、時間がかかりすぎると呼び出された。精神的に追い詰められて泣く同僚を何人も見たし、突然倒れる上司もたびたび居た。

 

家に帰れば、だんなは居ないので家事も育児も全部一人でやるワンオペ育児。出産を決めてから、だんなは朝から晩まで働き、休日出勤もしていた。

 

電話でずっと話しているので、のどが常に痛く、帰ればおしゃべりな娘とずっと話して、寝る前の絵本を読むと咳が止まらなくなることも。一日のストレス発散は、子供がテレビに気を取られている間、1000カロリー位の甘い物を一気に食べること。悪い習慣になった。まわりのママ達はピカピカの一軒家を購入して、やりがいのある仕事をバリバリこなして、いつもキレイに化粧をしていて、輝いて見えた。住んでいる賃貸の古いマンションが恥ずかしかった。

 

 

 

仕事に少し慣れた頃、生まれて初めて胃腸炎になり、数か月おきにその症状が出た。仕事への拒絶反応とはわかり、辞めた方が良いのはわかっていた。ただ、自分には資格もなく、仕事の経歴もアピールできるものがない。それなのに、子供がいつ熱を出して休むかわからないとなると、転職は無理だと思った。その上、2か月も仕事が決まらなかったのだから。

 

この仕事を、嫌でしょうがないけど何とか乗り切るしかない。クレームで急に怒鳴られたり、いびられたりすることが多いため、防御策として誠心誠意謝ったように聞こえ、相手も何とか納得する返答を日々磨き続けた。そして、なるべく相手からの怒りを感じないように、とにかく忘れるように心がけた。手や声が震えてもそれを抑え、とにかく謝り、出来事を噛んで味合わないで丸のみする感じ。慣れと共にそれが出来るようになり、一見心は穏やかになるようにみえたが、胃腸炎は繰り返していた。

 

「理由なくずっと怒られるのは嫌だ。」この自分の単純な感情を、徹底的に無視して忘れることは、転職や他の何をするにも、やる気を失わせていたことに後で気づくことになる。誰かと話すこと自体とても億劫になり、子供関係の必要最低限以外の行動をしなくなっていった。

 

 

どこに居ても息苦しかった。なにより、こんな母親で子供がかわいそうだとういう思いがずっとあった。

 

 

子供はいつも元気に走りまわって、色んなことに目を輝かせて、大泣きしては大笑いして、こんなに素晴らしいのに、親である私が近くにいるとそれを悪く塗り替えてしまう。この子も将来できちゃった婚するんじゃない?そして、私みたいになっちゃうんじゃない?と。そう思いながらも、母親という立場から周囲には平気なふりをしてみせ、家では働きずめのだんなにしょっちゅう八つ当たりをしていた。だんなは、何も言い返さなかった。

 

 

今思うと、「怒られるの嫌だ。」という思いを、何かに発散させたり、ケアすることが意識的に出来ていれば、この仕事を続けられたのかもしれない。だんなにも、少しは優しくできたのかも。




産むのはだんなの決断だった 私は?

 

子供が小学生になった時、胃腸炎が絶頂にひどくなり、仕事を辞めざるをえなくなった。辞めてしばらくすると案の定胃腸炎が落ち着き、あんなに決まらないだろうと思っていた転職が、あっさり何社か決まった。恐るおそる行った新しい職場は、子供の体調不良に寛容で、仕事に支障をきたさず結果を出せば、勤務時間も融通がきく会社だった。もちろんトイレに何分行ったか、時間を計られることもない。

 

あまりの違いに、全身脱力。最初はこんなに自由でいいのか、頭も体もついていけなくて、から回るように動いていた。電話対応という業種は同じだが、関連する幅広い業務に携わるようになった。

 

以前は、いかに自分一人がやる仕事を極限まで減らそうと考えていたが、今は限られた時間の中でいかに同僚と結果を出すかを考えるようになった。定時を1分でも過ぎないようぴったりで逃げるように帰っていたのに、子供が帰る時間ギリギリまですすんで仕事をするようになった。ただ、楽しい、面白い。こんな風に働く日がくると思わなかった。生まれて初めて昇進もした。



しかし、今の職場での仕事をする際、前職で培ったクレーム対応経験が役に立っている部分も大きい。無駄なことは何一つないんだなとも思えるようになった。前職の真っただ中は、こんなこと何の役に立つんだろうと、いつも思っていたけれど。また不思議なのが、今の職場は良好だが、ステップアップできるのであれば転職も厭わないと思うこと。あんなに辛かった職場はなかなか離れられなかったのに、働きやすい職場はすぐにでも転職できる気持ちでいられる。

 

だんなも同時期に転職したことで、家族がそろう時間が増えた。夕飯も一緒に食べられる。

 

ある日、生活するためのお金を稼ぐことは苦しみと我慢でなく、大変なこともあるが楽しんでいくことと、私たちから感じてくれれば良いなとだんなに話した。だんなは全然賛同しないで、うまくお金儲けをする方法を教えたいと言った。その方法、今すぐ実践してくれよ(笑)と言ったその時、私は娘を大人まで育てあげるんだという決断を、していなかったことに気づいた。

 

そうなっていくんだろうという漠然としたものはあってそれを目指していたけど、ずっと育児も仕事も目の前のことに夢中過ぎた。母親8年目にして、私はあなたを大人になるまで育て上げるんだって言うことが出来た。迷いながらここまできたけど、今はハッキリ意志を持っている。



生まれ変わっても

 

できちゃった婚は恥ずかしい、そんなんで子供育てられるの?という固定概念は誰かに押し付けられたのではなく、他でもない自分が持っていたものだった。私ができる仕事は少ない、転職できないという概念も自分が持っていただけ。

 

全部知らないうちに自分で作りだし深く信じて、そこに新しい概念が現れると、どっちを取るか一人で迷いだす。そこから決断して、先に進むことが、迷うことよりどんなにらくちんか。ただ、やるんだ!って決めるだけ。決めてしまえば、もう動き出すしかない。

 

住むところも食べるものも有り余る私たちに、何かをできないと絶望する要因は何一つない。今、思うままに子供を作り、思うままに働き、明日死んでも悔いのない毎日を過ごせばいいはずだ。いろいろと迷うけど。疲れたら、休めばいい。

 

私は生まれ変わっても、同じ両親のもとに予期せず生まれ、だんなとできちゃった婚をして、娘に会いたい。欲を言えるなら、高校生くらいからだんなに出会って、もう少し恋人期間を過ごしたかったかな。